今を生きる

2021年8月22日 礼拝メッセ―ジ全文

エゼキエル書 18章21~32節

新型コロナウイルス流行のため、茨城県に再び緊急事態宣言が発出されました。このような状況は、一年半近く続いておりますが、私達には未だ分からないことばかりです。このウイルスがどのように生まれたのか、そして、どうすれば感染から守られることができるのか、巷には色々な情報が出回っており、何が正しいのか分からないような状況です。このような中で、私達クリスチャンは、どのように生きてゆけば良いのでしょうか。

今日の聖書箇所を読み、思い巡らしながら、改めて教えられたことは、聖書の伝えている神様はいつも、「今」という時を見ておられるお方であるということです。私達を待ち受ける将来という時は、不確定なものであり、明日何が起こるかさえ、私達には分かりません。一方、私達それぞれの持つ過去という時の中には、良い時も、悪い時もありますが、二度とその時が戻ってくることはありません。神様は、そのような不確定な将来や、過ぎ去った過去のことを思い続けるのではなく、「今」という時を生きるように、私達を導いておられます。神様の目に大切なことは、私達が「今」をどう生きているのか、であるからです。

 

1.各人の責任を問われる主

エゼキエル書18章1節~20節は、イスラエルの民が過去に犯した罪とどのように向き合うべきかを教えています。その中で、主は、罪に対して「各人の責任」を問われるお方であるということが言われています。

20節「罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである」

父親がどんなに罪を犯しても、子がその罪を負わなければならないということはありません。逆に、父親がどんなに正しい人でも、子がその正しさの報いを受けるということもありません。それはつまり、神様は、各人の責任を問われるお方であるということです。

このようなことは、実は、イスラエルの歴史の中で繰り返されてきたことでした。列王記等で、イスラエルの王となった人々の系譜を見ると、いつも正しい王の後に、その子供である悪い王が現われ、そしてその後に、その子供が主に立ち帰る、ということが繰り返されてきたことが分かります。そして、そのような罪の繰り返しの中で、バビロン捕囚という出来事が起こりました。イスラエルの王、民が神に背いたことの結果として、彼らはバビロンという異国に移住させられることになりました。

しかし、そのような中で、このように言う人々がいたということです。「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く(2節)」。これは、先祖の犯した罪によって、自分達は罪に定められるという理解のことです。つまり、先祖が罪を犯したことによって、バビロン捕囚が起きたのであって、今の災いは自分のせいではなく、先祖のせいなのだと、彼らは主張していたのです。

確かに、先祖の犯した罪は、現在の自分達の状況に無関係ではありません。しかしそれは、聖書的には、自分達が先祖の罪を負っているのではなく、先祖の犯した罪の刈り取りをしていると言うことができます。聖書は、罪を犯すなら、その刈り取りをしなければならないと伝えています。例えば、次のような箇所を見てみましょう。

出エジプト記20:5-6「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」

ガラテヤ6:7-8「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります」

このように、人は、罪を犯すなら、その刈り取りをしなければなりません。刈り取りとは、罪によって生じた過ちや傷と、ある時は自分が、またある時は自分の後の世代が、向き合わなくてはならなくなるということです。

しかし、聖書の伝える神は、新約聖書も旧約聖書も変わることなく、人の罪を赦される神です。そしてその罪の赦しとは、私たち一人一人が、罪を自分自身のものとして受け止めるときに、はじめて可能となるものです。イスラエルの人々の中には、バビロン捕囚が起こったのは、先祖の罪のせいであって、自分のせいではないと言う人々がいたかもしれません。しかし罪とは、すべての人のものであって、神の前では、すべての人が同じように責任を問われなければなりません。

このことは、私たちにとって、悪い知らせとしてではなく、良い知らせとして与えられています。私たちの親や先祖がどんなに素晴らしい人であったとしても、その正しさを私たちが受け継ぐわけではありません。同じように、どんなに親や先祖が罪を犯したとしても、その罪を私たちが負うわけではありません。私たちが負わなければならないのは、自分自身の罪であって、他者の罪ではありません。

それはつまり、神様が目を向けておられるのは、先祖でもなく、誰か他の人でもなく、他でもない「わたし」という人間が、今というこの時に、神の御前にどのように生きているのかであるということです。

 

2.わたしの「今」を見ておられる主

そのように、私たちに先立つ先祖に色々な人生があったように、私たち自身の人生の中にも、色々な時があります。良い時もあれば、悪い時もあります。その人生の時の中で、罪を全く犯したことがないという人はいません。様々な罪や過ちを繰り返して生きていきます。しかし神様は、21節で「悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない」と言われています。

私たちの過去がどうであろうと、神様は私たちが今、悔い改めて悪から離れるなら、すべての罪を思い起こさず、赦してくださいます。

そのように神様が私たちの「今」に目を向けられるということは、その逆もまた然りということです。24節で神様はこう言われています。「しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ」。

私たちがこれまでどんなに正しく生きようとも、今それを忘れ、悪に走るなら、神様はすべての正しさを思い起こさず、私たちを罪に定められるということです。

 

このような神様の言葉に、皆さんはどう感じるでしょうか?

イスラエルの民は、こう言いました。「主の道は正しくない(25節)」と。「正しくない」と書かれていますが、これは原文では「公平ではない」という言葉です。そのような裁きをされる主は公平でない、と彼らは言ったのです。

なぜ「公平でない」と言ったのでしょうか?

これは、私たちにも共通することですが、人間は、自分の一部分だけではなく、全体を、結果だけでなく、そこに至る過程を見て欲しいと願うものだからです。

例えば、イエス様のたとえ話の中に、「放蕩息子のたとえ」があります。この話の中で、放蕩息子と呼ばれた弟は、父の財産を受け取ると、遠い地に旅立ち、放蕩の限りを尽くして、財産をすべて使いきってしまいます。食べることもできなくなったこの息子は、我に返って、父の元に帰り、詫びて、もう一度やり直そうと思い立ちます。父親は、この息子が帰って来るのを見ると、彼を走り寄って抱きしめ、一番良い服を彼に着せ、手に指輪をはめ、肥えた子牛を屠って、祝いの宴会を始めます。このような様子を見たこの息子の兄は、怒ります。自分はこれまで一生懸命に父に仕えてきたのに、こんなに良くしてもらったことはない。それなのになぜ弟だけが、放蕩を行って帰って来ると、こんなに歓迎されるのか、と。

この兄の言葉は、神の無条件の恵みに対する、私たちの人間的な反応を示していると言えます。放蕩息子は、これまでずっと悪を行っていました。それに対して、兄は、これまでずっと父に従い、正しい人生を送っていました。それなのになぜ、突然帰ってきた放蕩息子が、兄よりも良い報いを受けるのか。私達も同じ立場にいれば、そのように思うかもしれません。

これは、今日のエゼキエル書18章の文脈に置き換えるなら、次のように言えるでしょう。つい今さっきまで悪を行っていた人が救われて、つい今さっきまで正しいことを行っていた人が滅ぼされるのはどうしてか。それは不公平ではないのか、と。

しかし神様が目を向けておられるのは、「今」という時に、神の元にいるのか、いないのか、ということに尽きるのであり、それ以上でもそれ以下でもありません。これまでどんなに正しいことを行おうとも、今、神様に従わないなら、その人は罪に定められるのであり、逆のことも言えます。放蕩息子のたとえでは、罪を犯して帰ってきた弟も、兄も、同じように父に仕える者となったのであり、そこに差別はありません。その意味で、神の裁きは、完全に公平なものであり、そこに人間的な価値判断の入る余地はありません。30節前半には「それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる」ともあります。

神様が見ておられるのは、あくまで、私たちのひとりひとりです。過去がどのようであったとしても、私たちが、今、神に従う道を歩んでいるのか、それとも神に背く道を歩んでいるのか、それがすべてであるということです。

 

3.今、主に立ち帰って生きる

そのような私たちの一人一人に対して、神様が願っておられることは何でしょうか。それは、私たちの一人一人が、今、主に立ち帰って生きるということです。

32節「『わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる」

エゼキエルを通して語られた神の言葉は、私たちを裁き、滅びに至らせるためのものではありません。それは、私たちの一人一人が、主に立ち帰って、「生きる」ようになるためでした。そのように、私たちを死から命へと救ってくださるのは、神様ご自身であり、イエス・キリストの十字架です。

 

イエス様が十字架にかかられた時、二人の犯罪人がその両脇に十字架につけられました。その内の一人は、イエス様を罵りましたが、もう一人は、イエス様にこう言いました。

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください(ルカ23:42)」。

するとイエス様は彼にこう言いました。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる(ルカ23:43)」

この犯罪人は、私たちの姿です。私たちは今、十字架につけられてはいませんが、イエス様に従うなら命を、背くなら滅びを受けるという意味では、同じです。

私たちがこれまでどのように生きてきたとしても、今、私たちが自らの罪を認め、主に立ち帰るなら、主は私たちの一人一人に、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言ってくださいます。今日、今、この時、それがどのような時であったとしても、たとえ十字架の上で死を待つばかりの時であったとしても、主はわたしという人間に、今、命を与えてくださるお方です。

 

エゼキエルの言葉は、そのように主イエスに全面的に頼って、今を生きる生き方へと、私たちを導きます。今を生きようとする時、私たちは、それまで積み上げてきた「わたし」の人生から手を放し、真に神様に頼る者となります。また、これから先の「わたし」の将来を主の手に委ね、将来がどうであっても、今、私の罪を赦し、義として下さる主に頼る者となります。この主に希望を置いて、今を生きてゆきましょう。