2020年8月30日 礼拝メッセージ全文
出エジプト記 12章21~28節
8月は出エジプト記をこれまで読んで来ましたが、そこから私たちは、主なる神様がイスラエルの民をあらゆる災い・苦難から救い出して下さったことを知ることができます。主はまた私たちをも、災いや苦難から救い出して下さいます。
今日の箇所は、出エジプト記の中心的な出来事である、主の過越しについて伝えています。過越しの出来事がきっかけとなり、イスラエルの民はエジプトを脱出することとなりました。それは、エジプトでの奴隷状態から解放されるという、イスラエルの救いを記念する出来事となりました。この救いは、どのようにもたらされたでしょうか?
1.家族ごとに
21節には次のようにあります。
「さあ、家族ごとに羊を取り、過越しの犠牲を屠りなさい」
ここから、過越しの食事は、「家族ごと」に行うものであったことが分かります。実はこのことは、12章の3節にも書かれていることです。
「今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに子羊を一匹用意しなければならない」
このように、過越しの食事は家族ごとに祝われました。それは、過越しの出来事自体が、家族ごとに起こったことだからです。それは具体的には次のように起こりました。
「主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである(23節)」
ここでは言われていませんが、主は、初子、つまり初めて生まれた子どもを撃つ、と言われました。家族の中で最も弱い存在である子どもを、しかも、後継ぎとして将来が期待された存在である初子を撃つと言われました。そのような悲惨なことがイスラエルの民に起こらないように、主はそれぞれの家庭で、行うべきことを指示されました。それは、子羊を屠って、その血を家の鴨居と二本の柱に塗るということでした。その血を見て、主がその家を過越して下さるためでした。
このように、過越しの出来事は、家族ごとに起こったことでした。モーセとアロンによって10の災いがエジプトにもたらされましたが、その十番目である過越しは、それまでの9つの災いとは異なります。それまでの災いでは、イスラエルの民が守られる時は、民全体が守られました。例えば、雹がエジプト中の人々と家畜を襲った時、イスラエルの民の住む地域には降りませんでした。また、エジプト全土に暗闇が臨んだ時も、イスラエルの民の住む所には光がありました。しかし、過越しの時は違いました。イスラエルの民は家族ごとに、主の過越しの儀式を行い、それによって主はそれぞれの家族を守って下さいました。そのことを覚える続けるために、主はこの過越しの食事を、世々にわたってそれぞれの家族で行うように命じられました。
私たちの住む日本でも、このように家族で宗教儀式を行うということは、とても馴染みがあることだと思います。多くの家庭では、年末に家族で年越しそばを食べます。また家には門松を飾ります。そして家族で初詣に行きます。これらは宗教儀式ではなく、日本の文化であると言う人々もいますが、実際には偶像崇拝が私たちの生活に根付いたものです。それに対して、過越しの食事は、偶像の神々ではなく主なる神様への礼拝を生活に根付かせるために、各家庭に与えられたものでした。日本のような異教の地において、信仰を継承することは、とても難しいことです。イスラエルの民も、エジプトで異教の神々との対決を迫られましたし、その後に入ることになる約束の地カナンでも、常に周囲の異教信仰との戦いを迫られました。そのような中にあって、イスラエルの民には、主こそ真の神であり、過越しによって救いを与えて下さった方であるということを家族で覚え続けるために、過越しの食事という場が備えられました。
2.信仰によって家族となる
そのように、過越しの食事を家族ごとに行うということは、家族で主を礼拝することの重要性を伝えています。しかし、この「家族」ということは、ただ肉による家族のことだけを示している訳ではありません。12章3節に次のようにあります。
「もし、家族が少人数で小羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない。」
家族が少人数である場合や、独身者である場合、その他色々な事情で、家庭で過越しの食事を行うことが難しい場合、近隣の家族で集まって過越しの食事を行うことが許されていました。これは、家族とは神様の恵みによって備えられるものであるということを示しています。
家族が本当の意味で家族になるためには、神様の恵みが注がれることが必要です。モーセ自身、複雑な家庭環境で育ちました。彼は生後間もなくイスラエル人の両親と離別し、ツィポラという異邦人と結婚しました。彼女との間にモーセは二人の子どもを設けましたが、初め神様はこの家族を主にある家族と認められなかったようです。
「途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされた。ツィポラは、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付け、「わたしにとって、あなたは血の花婿です」と叫んだので、主は彼を放された。彼女は、そのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである(4章24~26節)。」
この衝撃的なシーンは、モーセが二人の息子にイスラエル人の慣習に従って割礼を施していなかったことにより引き起こされました。主はそのことでモーセを責め、殺そうとまでされました。しかしその時、二人の子どもに割礼を施したのは父モーセではなく、異邦人の妻・ツィポラでした。これは、神様の一方的な恵みと憐れみによって、モーセ一家が守られたことを示しています。そのようにして、モーセとその家族は、本当の意味での家族となることができました。聖書には書かれていませんが、彼らは一緒に過越しの食事を祝うことになったことだと思います。
そのように、過越しの食事は、家族が信仰にあって本当の意味での家族となることのできる場所でした。この過越しの食事は、私たちの罪を取り除く神の子羊として自らをささげられたイエス様を指し示しています。イエス様が十字架にかかられる直前に弟子たちと共に取られた食事、いわゆる最後の晩餐は、この過越しの食事でした。イエス様はそのことについてこう語られています。
「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた(ルカによる福音書22章15節)。」
弟子たちは、イエス様と血のつながった家族ではありませんでした。むしろ彼らは、家族を捨ててイエス様に従って来たのでした。そのような弟子たちと過越しの食事を共にとることによって、信仰による家族となることを、イエス様は切に願っておられました。そのように主は、私たちとも、信仰による家族となることを願い続けておられます。過越しの食事、そしてそれに由来する主の晩餐式は、そのような場を提供します。
3.あなたも家族も救われる
主は、信仰によって家族とされた私たちの一人一人が、過越しの出来事のように解放と救いを経験し、そのことを覚え続けることを願っておられます。使徒パウロは、次のように語っています。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます(使徒言行録16章31節)」。
この言葉が語られている使徒言行録16章25~34節のエピソードと、過越しの出来事との間には共通点があります。まず、イスラエルの民がエジプトで奴隷のような支配の下に置かれていたように、パウロとシラスを含めた囚人たちは監獄の中にありました。そして、過越しの出来事が真夜中に起こったように、この監獄で真夜中に大地震が起こり、牢の扉がすべて開いてしまうということが起こりました。これは、全ての光が失われた夜の暗闇の中で、救いの出来事が起こったということを表しています。この牢の看守は、牢の扉が皆開き、囚人たちが逃げてしまうことを恐れ、剣を抜いて自らの命を絶とうとしました。囚人を見張るはずの看守でしたが、囚人以上に、恐れという鎖で縛られていたのです。その看守に対してパウロとシラスは断言しました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。イエス様を信じることによって、この看守は恐れの束縛から解放され、絶望のどん底からイエス様によって罪赦されて新しい命に生きる者とされました。それだけでなく、その家族も皆、この救いを受け入れる者となりました。
私たちも、様々な苦難の中で、エジプトでのイスラエルの民のように、また牢に捕らえられた囚人たちのように、そしてまた恐れに縛られたこの看守のように、主の解放と救いを必要としています。イエス様は、まず、そのような私たちを救い出すために十字架にかかって下さいました。そしてそのことを信じるとき、私たちの家族も、そして信仰によって家族とされた霊の家族も、同じ御救いにあずかる者とされてゆきます。この約束を信じて、私たちは今日も家族で主なる神様に礼拝をささげています。