神に心を動かされた者

2022年10月2日 礼拝メッセージ全文

エズラ記1章1節~11節

今週からエズラ記に入ります。エズラ記は、先月まで読んできたダニエル書の、時代的には後の話になります。バビロン帝国に捕囚となっていたユダの人々は、70年が経った時、解放されて、エルサレムに帰ることができるようになりました。エズラ記は、そのように捕囚から解放された神の民の喜びを伝えています。

私たちの人生においても、様々な束縛、様々な苦しみを経験することがあります。しかし神様は、神の時が満ちる時に、それらの束縛や苦しみからの解放を与えてくださいます。そして、今日の箇所、エズラ記の最初の箇所を通して教えられることは、その解放の時、救いの時には、神に心を動かされる者が起こされるということです。

1.神に心を動かされたキュロス王

まず、今日の箇所は、ペルシアの王であったキュロスという人の心が神様によって動かされたことを伝えています。

1節「ペルシアの王キュロスの第一年のことである。主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた」

キュロス王の名前は、先月まで読んだダニエル書にも出てきました。彼は、ペルシアの王でした。ペルシアは、バビロンに代わって、この地域を治めていた国です。ユダの人々はこの時、ペルシアの支配の下に置かれていました。そして、この国の人々はバビロンと同じく、真の神を知らずに、偶像を拝んでいました。しかし神様は、このようなペルシアの王であるキュロスの心を動かされました。

2節「天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい。神が共にいてくださるように」

神様が、どのようにキュロス王に語られたのかは分かりません。しかし彼は、エルサレムに神殿を建てるように主から命じられたと信じました。神様が彼の心を動かしてくださったのです。それは、ユダの人々の目には、不可能なことのように思われました。なぜなら、ダニエル書が伝えているように、ユダの人々には、バビロンやペルシアの王からひどい迫害を受けて来た歴史があったからです。しかし神様は、このキュロス王の心を動かされました。その事実は、神様が私たちの理解をはるかに越えたところで、人間の心を動かされるということを伝えています。

私たちも、そのようなことを経験する時があるかもしれません。神様は、御自分の主権によって、人の心を開いたり閉じたりすることができるお方です。私は、サラリーマンであった時、会社を辞めて神学校に行くという召命が与えられました。当時私は、南米のチリに駐在員として派遣されており、派遣期間は短くても5~6年、長ければそれ以上と言われていました。チリの現地法人の社長は、日本の親会社から派遣された日本人の方で、私のことを本当に良く面倒を見て下さいました。社長はとても厳しい人であり、私は仕事のことで毎日のように怒られ、指導を受けました。私は最初、全く知らなかったスペイン語を覚えるために、語学学校に通わされ、毎日スペイン語で日記を付けるように言われ、それを社長自ら赤字で真っ赤になるまで添削して下さいました。そのような中、言葉をある程度使えるようになり、仕事も覚えてきた1年が経過したころ、神様から神学校へ行くようにという召命が与えられました。その経緯は、今回は省きますが、ともかくも会社を辞めたいという思いをこの厳しい社長に伝えなければならない。そうなった時に、私の心は恐れでいっぱいでした。しかし、祈って、御言葉によって確信が与えられ、ある日、意を決して社長に自分の思いを伝えました。すると、社長から返ってきた言葉は、「良く分かった」という意外な答えでした。「今日のあなたの話は、これまであなたから聞いた話の中で、一番良く分かった」と言ったのです。しかも、社長は、親会社の人事部や役員の方々に、私の思いを代弁し、理解を得てくださったのです。社長はクリスチャンでもありませんし、私のために投資した時間とお金を考えれば、厳しい反対があるだろうと覚悟していました。しかし神様は、その社長の心をさえ動かしてくださったのだと感じました。

神様は、御自分の計画を成し遂げるために、すべてのことを整えてくださいます。その過程の中で、私たちの目には反対者のように見える人の心をさえ動かしてくださいます。キュロス王は、正にそのような人物であったと言えます。そして神様は、このキュロスの心を動かされ、ユダヤ人のエルサレム帰還と神殿建設を命じ、それだけでなく、そのことを文書にも記して、国中に知らせました。エズラ記を読んでいくと、この文書が後の時代になって神殿建設反対運動が起こった時に、建設が続けられてゆくための根拠となったことが分かります。つまり神様は、後の時代に起こることまでもすべてご存じの上で、キュロス王の心を動かし、命令を文書に残すようにされたのです。このように、神様は、御自分の計画を成し遂げるために、一見反対者と思われる人の心をさえ動かしてくださいます。

 

2.神に心を動かされたユダの人々

そして同時に、神様が心を動かされたのは、御自分の民、ユダの人々でした。

5節「そこで、ユダとベニヤミンの家長、祭司、レビ人、つまり神に心を動かされた者は皆、エルサレムの主の神殿を建てるために上って行こうとした」

ユダの国の人々、すなわちユダとベニヤミンの人々は、バビロンに捕囚となり、70年もの時が経過していました。その間、彼らは幾度となく、故郷に帰りたいと願ったと思います。しかし、状況がそれを許しませんでした。そんな時に、不思議な方法でその扉が開かれるということが起こりました。敵であるペルシアの王キュロスが、ユダの民はエルサレムに帰り神殿を建設するようにとの命令を出したのです。その時、彼らは、神様によって心を動かされるという経験をしました。

神様は、全知全能のお方です。神様はご自分ひとりですべてのことを成し遂げることがおできになります。しかし聖書を読むと、この神様が、私たち人間を用いてくださる方であるということが分かります。それも、神様は私たちの心を強制的に変えるのではなく、私たちが自主的に神様に従う心を持つように導かれるということです。この時も、ユダの人々は、キュロス王に命じられたから、ユダに帰る決心をしたということではありませんでした。彼らは、神様ご自身によって心を動かされ、自らの意志でエルサレムに帰り、神殿を建てるための準備を始めました。

この世で人の心を動かすためには、その人に何かを強制したり、命令したり、あるいは恐れを抱かせてしまう時があるかもしれません。しかし神様が私たちの心を動かされるというのは、それとはまったく異なり、いつも神様の愛に基づいています。ユダの民は、バビロン捕囚になってから70年という歳月が経過していました。その中で、主を忘れてしまったり、捕囚の地が居心地よく感じるようになってしまったりということもあったのではないかと思います。しかし神様は、この70年という時が満ちた時、かつて預言者に語られたように、捕囚からの解放を実現されました。その始まりの時、キュロス王からの命令が出た時に、ユダの民は、主の憐れみ、神の愛は決して尽きないということを示されたでしょう。主は私たちのことを決して忘れない、そして、神の愛によってエルサレム帰還を果たし、さらには神殿再建のために用いてくださるのだということを、彼らは信じて受け取りました。

私たちの一人一人も、このような神様の愛をいただくとき、心を動かされるということを経験します。そして、神様が心を動かして下さらなければ、私たちは今日、このように共に礼拝をすることはなかったでしょう。同じように神様は、すべての人の心を今なお動かし、イエス様を信じ、またイエス様に従うように、招いておられます。

 

3.神殿再建の指し示すもの

それでは、神様はこのように人間の心を動かされることを通して、何を成し遂げようとしておられるのでしょうか?

エズラ記を読んでいくならば、それは、神殿を建て上げるということのためであったということが分かります。バビロンの捕囚になっていた人々がエルサレムに帰り、神殿を再建すること、これが神様の目的でありました。しかし、この神殿は確かに再建されましたが、さらに後の時代には、再び壊されてしまうことになってゆきます。その意味では、神様が本当に建てようとされていたのは、ただ神殿という建物のことではありませんでした。神様が本当に建て上げようとしていたのは、神に心を動かされ、心から主を求める人々、私たちの一人一人の存在のことであったのです。

コリントの信徒への手紙一3:16「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」

使徒パウロは、神の霊が内に住む私たちの一人一人は、神の神殿であると語りました。その霊とは、イエス・キリストを主であると信じる時に私たちに与えられる聖霊というお方です。この聖霊は、私たちの内に住み、私たちの心を動かされる存在です。そして、私たちを励まし、慰め、癒し、新しい導きを与えるのも、ご聖霊の力です。このようにして、私たちは聖霊によって、建て上げられてゆく神の神殿であるということです。そして、主が望んでおられるのは、そのように神の霊を受けた私たちの一人一人が、神の神殿として建て上げられてゆくということです。エルサレムに再建された神殿のように、目に見えるものはすべて、いずれは壊れ去ってゆくものです。しかし、イエス様がご自分が死者の中から復活されることを指して「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われたように、イエス様を信じることによって、全く新しい永遠の命を与えられた私たちは、決して滅びることなく、むしろ日々新たにされてゆく神の神殿です。

そして同時に、主の望みは、そのように建て上げられ、新しくされてゆく私たちの一人一人によって、神による共同体が建て上げられてゆくことです。それは、エズラ記の時代ではエルサレムの神殿でした。今日の私たちにとっての、神による共同体とは、教会のことであり、同時に、私たちそれぞれの家族のことでもあります。

神様は、私たちが、どんなに自分はもう壊れ去ってしまったと思っても、常にイエス様によって、新しく造り変えられることができるという希望を与えてくださいます。同じように、神の共同体である教会や、私たちの家族に、どのような痛みや問題があったとしても、神の霊によって建て上げられた私たちを通して、そこに癒しと再生を与えて下さいます。私たちの一人一人は、そのことのためにこそ、イエス様によって招かれて、心を動かされる者です。神様が私たちの心を動かされる時、弱く小さな器である私たちの一人一人を用いて、神の神殿を建て上げるという偉大な御業を成し遂げてくださいます。今週、私たちが置かれたその場所で、神様によって自分自身を新しくし、建て上げてください、またその置かれた場所を新しくし、建て上げて下さい、そのように願う時、主は共にいて私たちの祈りに答えてくださいます。