神の御子と共にある人生

2020年12月27日 礼拝メッセージ全文

マタイによる福音書 2章13~23節

 

先週は日曜日にクリスマス主日礼拝、木曜日にはクリスマスイブ礼拝をご一緒にささげることができたことを主に感謝します。そして今日は今年最後の礼拝となります。今日の箇所は、クリスマスの出来事の後、イエス様がお生まれになった後で、どのようなことが起こったのかを伝えています。それは、イエス様がまだ幼子であった時の話です。実は聖書は、イエス様が成人するまでの話を殆ど伝えていません。しかし、イエス様が幼子であった時に経験されたことは、イエス様がこの地上の生涯で経験されることを先取りして表すものとなっています。そしてそれは、イエス様を信じ、イエス様と共にある私たちが経験していく人生をも表しています。

 

1.敵に命を狙われる

イエス様がこの世にお生まれになった直後に起こったこと、それは、この神の御子を滅ぼそうとする敵対勢力が生まれたということです。今日の箇所で、ヘロデ王が、幼子であるイエス様を殺そうとしたということが伝えられています。このことは、今日の箇所の前の箇所にも示されていたことでした。ヘロデは、占星術の学者たちをベツレヘムに遣わして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と伝えました。しかし実際にはヘロデはイエス様を拝むためではなく、殺すために、彼らを遣わしたのでした。その現われとして、学者たちには夢で「ヘロデのところに帰るな」とのお告げがありました。このとき既に、ヘロデがイエス様を殺そうとしていたということが分かります。

このようにヘロデがイエス様を殺そうとしたということは、ただこの王が残虐で神を畏れない人物であったということではなく、この世に来て下さった救い主イエス・キリストを抹殺しようとする悪しき力が働いていた、ということを意味しています。占星術の学者たちにだまされたことを知ったヘロデは、ベツレヘムとその周辺一帯にいた、イエス様と同年代であろう二歳以下の男の子を、皆殺しにしました。何と恐ろしい、悪魔的な行いでしょうか。しかしまさしく悪魔であるサタンが、イエス様の命を滅ぼそうとしていたのです。このことは、この時だけでなく、イスラエルの民がその歴史の中で繰り返し経験してきたことでもありました。子どもが皆殺しにされるということ、これは、エジプトでモーセが生まれた時にも、同じことが起こりました。ちょうど今年の8月~9月に私たちは出エジプト記を学びましたが、その時に取り上げられた箇所ですね。ファラオはエジプトで栄えたイスラエルの民を憎み、新しく生まれた男の子を殺すように助産婦に命令しました。しかし助産婦は神を畏れていたので、ファラオの言う通りにしませんでした。するとファラオはますます怒って、全国民に生まれてきた男の子を皆殺すように命じました。そのような中で、生まれたばかりのモーセは間一髪で救い出されました。ここにも、神様のご介入がありました。モーセが守られなければ、出エジプトの出来事は起こらなかったことになります。出エジプトが起こらなければ、イスラエルの民は滅びてしまっていたでしょう。イスラエルの民は、旧約聖書の時代、あらゆる苦難を経験しました。そこには、この神の民を滅ぼそうとするサタンの力、そこから生まれ出るメシアを来させまいとするサタンの力が働いていたと言えます。今日の箇所でもイエス様は、そのような敵に命を狙われていたことが伝えられています。

そしてそれは、イエス様を信じる私たちについても、同じことが言えます。私たちは、イエス様を信じるからといって、実際に誰かから命を狙われるということはふだん経験しないかもしれません。しかし、敵であるサタンは私たちの命をいつも狙っています。次の御言葉にあるとおりです。

 

「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうとして探し回っています(ペトロの手紙一 5章8節)」

 

これは、キリスト教徒への迫害が厳しかった初代教会の時のことだけを言っているわけではありません。私たちも、イエス様を信じているがゆえに、あらゆる形で、サタンからの攻撃を受けています。その攻撃は物理的なものである場合もあれば、私たちの心に働く攻撃である場合もあります。あるときは災いを通して、あるときは人間関係での問題を通して、またあるときは罪への誘惑を通して、サタンは私たちを攻撃し、一人でも信仰を失い、霊的な死に至るように仕向けてきます。そのようにイエス様がお生まれになったことを通して、救いを妨げようとする敵の力がより明らかにされました。

 

2.主によって守られる

しかしイエス様は、そのような敵の攻撃のすべてから私たちを守るために、来て下さいました。そしてそのことを、ご自身の生涯を通して、私たちに証してくださいました。

今日の箇所で、ヨセフはイエス様の命をヘロデから守るために、エジプトへ逃れていったことが伝えられています。そこには本当に不思議な神様の導きがありました。ヨセフが見た夢の中に、以前も現れた主の天使が現われて、ヘロデがイエス様の命を狙っているから、エジプトに逃げるようにと伝えたのです。ヨセフは「夜の内に」、幼子イエス様とマリアを連れて、エジプトに向けて出発したとあります。それだけ切羽詰まった状況であったことがうかがえます。しかし主は、エジプトに逃れてゆくということを通じて、幼子イエス様の命を守って下さいました。

ここで示されているのは、イエス様が自分の命を守るために何もしていないということです。幼子ですから当然ですが、この時のイエス様には、まだ表立った働きは何もできません。しかし、今日の箇所にはイエス様の名前すら出て来ません。完全に自らを親の手に、そして神の御手に委ね切っているイエス様の姿を見ることができます。そしてその姿勢は、イエス様の生涯を通じて貫かれていたことでした。例えばそれは、ガリラヤ湖で嵐に遭われた時のイエス様の姿です。弟子たちが慌てふためく中、イエス様は舟の後ろの方で眠っておられました。そして、「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ(マタイ8:26)」と言われて、嵐を鎮められました。そのように、イエス様は、ご自分を守られる主をどこまでも信頼していました。そして最後には、十字架にまで、従順にかかられました。イエス様は何の反論も、抵抗もなさらずに、すべてを主に委ねて十字架にかかられました。そして死なれて三日目に、死から復活されました。

今日の箇所のイエス様の幼児期のエピソードは、イエス様が主によって守られ続けていたということを証しています。そしてそれは、イエス様を信じる私たちにも与えられる神様の守りです。イエス様を養育したヨセフの家庭が守られたように、私たちも、主であるイエス様を迎え入れて生きるなら、あらゆる敵の攻撃から守られます。不思議な導きによって、逃れの道が備えられるということがあります。また、何よりイエス様ご自身が、私たちの苦難をすべて負って、十字架にかかって下さいました。幼子であるイエス様が向かわれたエジプトとは、イスラエルの民が430年間、奴隷として苦しみを受けたところでした。それはイエス様が、すべての人の苦しみを背負って十字架にかかられるということを前もって表すためでした。私たちは、イエス様と共にあるなら、あらゆる苦しみや、その苦しみを通して私たちを攻撃するサタンから守られ、自由にされています。

 

3.御言葉によって導かれる

そして最後に、今日の箇所の幼子イエス様の歩みを通して示されるのは、イエス様のこの地上の生涯は、御言葉によって導かれたものであったということです。

エジプトからイスラエルの地に戻ったヨセフ一家は、イエス様誕生の地であるユダヤではなく、ガリラヤ地方に向かいました。ヨセフに再び夢でお告げがあったからです。このガリラヤというのは、イスラエルの中心ではなく、異邦人の多く住むところでした。

 

「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が差し込んだ(マタイ4:15-16)」

 

これは、クリスマスの時に読まれるイザヤ書9章からの引用です。ここに「異邦人のガリラヤ」とあるように、イスラエル人ではない民がそこにいたことが示されています。そしてそこにいる人々は「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」であったとも言われています。イエス様がガリラヤに行かれたのは、これらの人々に福音を伝えるためであったということです。そして、その中でも特に彼らの住んだナザレという町は、小さな町であったようです。このナザレという地名は、旧約聖書には一度も出て来ません。しかし、ヨハネ福音書の中では、ナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか(ヨハネ1:46)」と言っているように、ナザレは貧しい町、見捨てられた町として人々に知られていたようです。イエス様がそのような小さく貧しい町に行かれたのは、ご自身がそのように小さく貧しい者になられたということを意味しています。これらのことは、主が預言者を通して、人々に前もって語られていたことでした。その預言が、イエス様によって、一つ一つ成就されていったのです。

このようなことは、イエス様を信じる私たちも経験してゆくことです。人間の考えでは、なぜそのような場所に、という導きを与えられることがあります。しかし、イエス様に従って私たちが歩みを進めるとき、実はそれが主にとっては最善であり、御言葉を成し遂げるものであったということに気が付きます。

 

今日の箇所は、イエス様は、この地上の生涯を、常に主によって守られ、御言葉によって導かれて歩まれたということを伝えています。そして私たちはそのような神の御子と共にあるなら、いつもその主の守りと導きをいただく者とされています。間もなく始まる新しい年も、すべてをこのイエス様に委ねて、主の守りと導きに期待して歩んでいきましょう。