闇から光へ

2021年5月2日 礼拝メッセージ全文

使徒言行録9章1~19節

今月は使徒言行録を読んでゆきます。使徒言行録は、初代教会のリーダーである使徒たちの働きについて記しています。使徒たちの多くは、イエス様と直接出会い、その死と復活を目撃しました。しかし今日の箇所で出て来るサウロ、後のパウロは、生前のイエス様と会うことはありませんでした。サウロはイエス様が復活され、天に上げられた後で、イエス様と出会いました。その出会いは、次のような劇的なものでした。

3~6節「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる』」

イエス様は天からの光として、サウルのもとに現れてくださいました。そのことが示していることは、サウロが暗闇の只中に生きていたということです。

光とは、闇の深まったところにこそ、注がれます。しかし人は、暗闇の真っ只中にいる時、自分の暗闇に気付かないものです。

このとき、サウロは旅をして、ダマスコという町に向かっていました。ダマスコとは、エルサレムから200キロ以上北に進んだところにあった街で、現在はダマスカスと呼ばれるシリアの首都です。そんな所まで、彼が何をしにいっていたのかと言うと、クリスチャンを迫害するためでした。

サウロの名前が初めて聖書に出て来るのは、使徒言行録の7章、ステファノの殉教の場面です。

7章57~58節「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた」

8章1節「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」

ステファノは、聖書に基づいて、人々の不信仰を指摘しました。そしてその顔は、天使の顔のようだったと書いてあります。しかしまさに彼がそのように純粋で、正しかったからこそ、人々は彼を激しく憎みました。そして、何の抵抗もせず、祈りつづけるステファノを、人々は石打ちの刑で殺しました。このような残酷なシーンに、サウロも同席していました。人々が上着をサウロの足もとに置いたということは、サウロがこの死刑執行を監督するような立場にあったことを示しています。

このステファノの殉教以来、クリスチャンに対する大迫害が起こりました。サウロはその迫害活動の中心的存在であったと書かれています。そこで今日の箇所でも、サウロは、ダマスコという、エルサレムから200キロ以上離れた外国の土地に、クリスチャンを迫害するために、意気込んで向かっています。

サウロをそこまで迫害に駆り立てていたものは一体何だったのでしょうか。それは、サウロの心の中にあった、暗闇であると言うことができます。サウロだけでなく、すべての人が、心の中に闇を抱えています。しかし、何かを一生懸命行っているとき、自分の闇に気付かない、ということがあります。そして、暗闇に入って行けば行くほど、もはやそれが暗闇であることに気付けなくなります。しかしイエス様は、そのような私たち人間の暗闇を照らすためにこそ、光として来て下さいました。

さて、そのような闇の中にあったサウロのもとに、イエス様が光として現れたとき、何が起こったでしょうか。サウロは光に照らされて、目が見えなくなってしまいました。光に照らされるのだから、目が見えるようになってもよいと思うかもしれません。しかし、その逆で、神様の光はサウロの暗闇を明らかにするために、まずその目を見ることができなくしたのです。

光は、私たち自身の暗闇に目を向けさせます。このことで、思い出される一つの経験をお話ししたいと思います。それは、私が大学一年生になったばかりの頃のことです。ちょうど今頃の5月初め頃であったと思います。私は、熾烈な受験戦争を終え、晴れて希望していた大学に入り、希望に胸を膨らませていました。受験から解放されて、わたしは大学では遊ぶことしか考えていませんでした。目に映るすべてが輝いて見えた春のある日、朝起きると、目がはっきり見えなくなっていました。それも、前は良く見えるのですが、左右がはっきりと見えません。そして体も、手足がしびれて変な様子でした。すぐに病院にいって診断を受けると、ギランバレー症候群という珍しい神経系の病気にかかっていることが分かりました。特に治療法はなく、ただ安静にするしかないとのことでした。それから数週間、自宅でずっと横になって過ごしていました。同級生の友達は皆、遊び回っているのに、どうして自分だけこんな目に、と惨めに感じられました。幸い、少しずつ治っていきましたが、本当に不思議な経験でした。しかし今思えば、神様はその経験を通して、自分の中にある弱さや罪、そして暗闇に気付かせようとしておられたのかもしれません。光輝いて見える人生の只中でこそ、人は自分の暗闇に気が付くことができます。しかし私が、本当の意味で自分の心の中にある暗闇を経験し、そして神様を求めるようになるまでは、それからまだしばらくの時間を必要としました。

 

神様の光に照らされるとき、私たちは自分の内にある暗闇に気が付きます。そのきっかけは人によって様々であると思います。ある人は病を通して、ある人は人生で起こるあらゆる試練を通して、神様しか照らすことのできない暗闇が自分の内にあるということを知ります。神の光が眩しければ眩しいほど、私たちは自分の内側の暗さ、自分の弱さや誤りを見ることになります。それが聖書の伝えている、人間の罪というものです。この罪の暗闇と向き合うことなくしては、私たちは本当の意味でイエス様の光のもとに近づいてゆくことはできません。

目が見えなくなって、サウロは、自分の弱さを実感したことでしょう。迫害のために意気込んでやってきた彼ですが、人の助けなくしては歩けない身になってしまいました。そして、彼は食べも飲みもせずに、三日の時を暗闇の中で過ごしました。この三日の暗闇の時というのは、サウロにとっては、とても大切な時となりました。この三日がなければ、彼が救われることもなかったでしょう。この三日の間、彼が何を思い、何を祈っていたのかははっきりと分かりません。しかし、彼は闇から逃げ出さずに、それと向き合い、祈り続けたということは分かります。そのように、光によって暗闇が明らかにされたとき、私たちに必要なことはそれと向き合うことです。

イエス様と出会うということは、光を信じ、光の中を歩むということなので、暗闇との戦いの中に入れられるということでもあります。しかし私たちの内の誰も、自分の内の暗闇と向き合いたいとは思いません。それは痛みと苦しみを伴うものだからです。この戦いの中で、私たちは一人で、神様と、そして自分自身とに向き合わなければなりません。しかし、神様は、その戦いを共に戦ってくれる友を与えてくださいます。わたしのために、執り成し祈り、神に向かう助けを与えてくれる人が、与えられています。今日の箇所では、アナニアという人が、サウロの救いのために遣わされています。サウロは幻の中で、アナニアが自分の目を開いてくれるのを見ました。そしてアナニアも、サウロのもとへ行くようにと、幻の中で命じられました。もし、どちらか一方が、主の示しに従わなければ、サウロは闇の中にとどまったままでした。そのように、一人の人が暗闇から解放されるために、主は様々な出来事を働かせてくださり、必要な助け手を送ってくださいます。それは、一つの奇跡であるとさえ言えます。聖霊は、教会を通して今も働かれていて、私たちの一人一人が、暗闇から解放されるように導いておられます。

そしてもちろん、誰よりも、イエス様が私たちのために、執り成し、祈って下さるので、私たちは常に闇から光へと招かれています。

ローマ8:31-34「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」

この御言葉のとおりに、イエス様が神の右に座っている様子を、殉教したステファノは仰ぎ見ていました。そしてそのように私たちを執り成して下さるイエス様を、サウロも経験し、このように御言葉に記しています。神様が選んで下さった私たちを、誰も罪に定めることはできません。私たちの内にある暗闇がどれだけ深くても、その暗闇を光とするために、イエス・キリストが十字架にかかり、死んで下さったからです。

サウロが闇と向き合った三日間、それは、イエス様が十字架で死なれ、復活されるまでの三日間のことを指し示しています。イエス様は、全地を暗闇が覆う中で、死なれ、葬られ、最も深い暗闇である死を経験されました。しかしイエス様は三日目に、死と暗闇を打ち破り、復活されました!それは私たちも同じように、暗闇から光へ、死から命へと生かされるためです。私たちが暗闇を経験する期間が、三日間でも、三年間でも、また、たとえ三十年間であったとしても、イエス様に求めるなら、私たちはその暗闇から解放され、光の中を生きるようになります。そのことを信じて、暗闇の中で、主イエスを求め続けましょう。

今日の箇所の最後で、サウロは、イエス様を信じ、バプテスマを受けました。そのサウロの目から、「うろこのようなもの」が落ちたと書かれています。これは、サウロの霊の目が開かれたことを表しています。サウロは、肉の目も元通り見えるようになりましたが、それだけでなく、霊的な目で、イエス様を見て、信じるように変えられました。

サウロはこの後、食事をして、ダマスコの会堂に向かったと書かれています。その意味では、表向き彼は何も変わっていません。元通りに目が見えるようになり、それまで通り食事をし、そして当初の目的地だったダマスコの会堂へと向かったのです。しかし、彼の内側は、完全に変えられています。迫害者であったサウロは、キリストを宣べ伝えるために、ダマスコの諸会堂を巡ったのです。その意味で、今日の聖書箇所には「サウロの回心」という小見出しが付けられています。「回心」という言葉は、聖書原文にはほとんど出てこない言葉ですが、心が神様の方に向き直るということを表す言葉です。私たちは「回心」をして、イエス様の方に向き直りますが、歩き続ける道は、同じものに見えるかもしれません。しかし、霊の目が開かれた私たちが行くその道は、聖霊によって導かれる新しい道です。イエス様を信じてバプテスマを受けることは、私という存在が無くなるということを意味しません。バプテスマを受けた後も、サウロがサウロであり続けたように。しかしバプテスマを受ける全ての人は、罪に死に、キリストにある新しい命に生きる者となっています。パウロは後にこのように書いています。

ガラテヤ2:19-20「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」

罪に支配された古い自分は、キリストと共に十字架につけられ、今生きているわたしは、キリストにある新しい自分であると、パウロは告白しています。私たちは、このことを信じるがゆえに、暗闇の中に、光を見続けることができます。日々、自分の罪の暗闇を、イエス様の十字架につけてゆくとき、それは御手の中で光と変えられてゆきます。そのように、闇から光へと日々導かれ、キリストにあって、神様に選ばれ、愛されている自分の姿を見て、生きてゆくことができます。