枯れた骨の復活

2021年9月19日 礼拝メッセージ全文

エゼキエル書 37章1~14節

1.主の霊によって連れ出され

1節「主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった」

ここで、「主の手がわたしの上に臨んだ」そして、「主の霊によって連れ出され」という表現があります。

このような表現は、エゼキエル書の初めから繰り返されているものでもあります。エゼキエル書1章では、ケバル川のほとりにいた時に主の御手が彼の上に臨んで、ケルビムという天にいる霊的な存在と、その上にある主の栄光の姿の有様を見た、と書かれています。それからも、エゼキエルはたびたび主の霊によって「連れ出された」「引き上げられた」と語っています。それらの経験を通して、エゼキエルは、目の前の現実を超えたところにある、霊的な現実を示されることになったのでした。

実は私たちも、このように主の霊によって「連れ出される」という経験をしています。もちろん、ここでエゼキエルが経験したように、直接神様の幻を見るということを全ての人が経験する訳ではありません。しかし、私たちは聖書という、聖霊の導きによって書かれた神の言葉を通して、神様の霊の導きをいただいて生きることができます。主の霊は、聖書のみことばを通して、私たちが生きている現実の只中から私たちを連れ出して、霊的な現実、つまり、神様の目から見て今何が起こっているのか、ということを示して下さるのです。

 

2.枯れた骨が生き返る

エゼキエルが主の霊によって連れ出されて、見せられた現実とはどのようなものだったでしょうか。

2節「主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた」

エゼキエルが見たのは、いっぱいに広がった人の骨、それも、甚だしく枯れた骨でした。これらの骨は何を表していたのか、11節で「これらの骨はイスラエルの全家である」との主からの言葉があります。イスラエルの全家、すなわちイスラエルの全ての人々が、死者の骨のようになっている、それも、甚だしく枯れた骨となっている、ということ、これがエゼキエルに主から示された現実でした。

枯れた骨ということは、死後、かなりの時間が経過した状態であるということです。そして、もはや生き返ることが到底不可能な状況ということです。これは、当時のイスラエルの人々の置かれていた状況のことを表しています。11節を見ると、イスラエルの人々は「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と言っていたとあります。エゼキエル書のこれまでの箇所でも見て来たとおり、当時のイスラエルは、国家的な危機に直面していました。首都エルサレムはバビロンによって滅ぼされ、神殿も破壊され、中にあった様々な祭りの道具や宝物は持ち去られてしまいました。そのような中で、人々は異国バビロンで、いつまでとも分からず暮らし続けなければなりませんでした。

しかし、神様が彼らのことを「枯れた骨」と言われたのは、そのような外的な環境を指してのことではありませんでした。むしろ、彼ら自身が「枯れた骨」のような存在になっていたということだったのです。イスラエルの民は、真の神である主から離れて、偶像を拝むようになってしまいました。その罪のために、彼らは霊的には死んだ状態となってしまっていました。バビロン捕囚という出来事は、その罪を彼らに教えるために起こった出来事であって、彼らを滅ぼすことが目的ではありませんでした。主は、神様から離れたイスラエルの人々が、内側から枯れた骨のようになってしまったということを言われています。

骨というものは、通常私たちが生きている限り、見ることができないものです。もちろん現在ではレントゲンを撮って、自分の骨の状態を知ることができます。それでもなお、私たちは、自分の存在の内面がどうなっているのか、人間の力で知ることはできない者です。骨とはまさに、普段は見ることのできない、人の内面を表している言葉です。

神様は、そのようなイスラエルの民の内面を見ておられました。そして彼らが、甚だしく枯れた骨となっているということを示されました。それは、主に背き、偶像を拝んでいた民が、枯れた骨のように、主の霊的な満たしを失った状態にあったということでした。神は何のために、枯れた骨となったイスラエルを見せられたのでしょうか。それは、枯れた骨となったイスラエルも、神様の霊が注がれるとき生き返るということを示すためでありました。

5節「これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」

聖書は、人間が生きるために必要なもの、それは、目に見える体だけではなく、神の霊であると教えています。創世記2章7節で、初めの人アダムが造られたとき、造り主である神はその鼻に「命の息」を吹き入れられたと書かれています。この息という言葉は、神様の霊を表しています。人間は、神の息である霊を受けるときに、神の御心を求め、その御心を生きるように導かれてゆくということです。そしてそのように生きるときに初めて、人は心も体も神によって満たされるということを経験してゆきます。

箴言17章22節には「喜びを抱く心はからだを養うが、霊が沈み込んでいると骨まで枯れる」とあります。この言葉は、私たちの心に本当の喜びが与えられるのは、神の霊によって導かれ、神に従って生きる時であるということを伝えています。この霊とは、十字架にかかられ、私たちのために死んでくださったイエス・キリストを通して、私たちに注がれる聖霊というお方です。この世の中で私たちがどんなに喜び得ない状況に置かれても、神様は私たちの心に聖霊を注いで下さいます。そしてその時、聖霊は私たちにその場所から主なる神様を見上げる喜びを与えてくださいます。しかし、聖霊によらなければ、誰も神様を見上げ続けることはできません。その心は思い悩みや不安に支配され、やがてその骨まで枯れる、つまり、心身共に疲れ果ててしまうということが起こってきます。

私たちも、あらゆる困難の中で、時に枯れた骨のような状態に陥るかもしれません。聖書が告げるところによれば、イスラエルの全家が、この枯れた骨のようになっていたということです。一部分ではなく、全ての人々が枯れた骨のようになっていたと今日の箇所は伝えています。新約聖書の福音書を見るならば、イエス様をその目で見て信じていた弟子たちさえも、イエス様が十字架にかかり死なれた時、すべての希望を失い、家の中に引きこもっていたとあります。彼らもまた、目に見える希望を失ったとき、枯れた骨のようになってしまったということです。それであれば、私たちのすべてが、このような枯れた骨のような状態を通ること、これは必然のことであると言えると思います。

イエス様が死なれて意気消沈して、枯れた骨のようになっていた弟子たちは、どのように力を取り戻したでしょうか。ヨハネ福音書によれば、死から復活したイエス様は弟子たちの集まりの真ん中に現れて、彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言われました。そのようにして彼らは再び主を信じて生きる者に変えられました。イエス様が死者の中から三日目に復活されたのは、この弟子たちのように、私たちのすべてが、イエス様から注がれた聖霊の力を受けて、死から命へと復活することのためでした。ですから私たちも、今、枯れた骨のようになっていても、そこから復活するという希望をいただいています。この地上の人生にあって、どんなに目に見える希望が失われても、聖霊の力によって、私たちは生き返ることができるのです。そして、この地上の人生の終わりに、私たちの体も朽ち果て骨だけになるという時がやってきます。その時に私たちは本当に復活し、イエス様と顔と顔を合わせて、永遠に生きる者となるのです。

 

3.「非常に大きな集団」となって

10節「わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」

神様の霊が注がれるとき、枯れた骨となった私たちの一人一人は生き返り、自分の足で立つ者とされます。そして、ここではさらに「彼らは非常に大きな集団となった」とあります。これは、聖霊が注がれるとき、私たち一人一人がバラバラに生き返るのではなく、この地上において一致して、共に主を礼拝する者とされてゆくということです。

骨は、一本だけでは働きをすることができないものです。7~8節でも、「骨と骨とが、カタカタと音を立てて近づき、その上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った」とあるように、体は各部分を必要とするものです。そのように、キリストの体である教会も、その各部分を必要としています。一人一人は、枯れた骨のような存在であっても、聖霊によって新しい命を与えられた私たちは一つとされ、力を合わせて働く者となってゆきます。そのことがここで、「彼らは非常に大きな集団となった」と言われています。

今日の箇所においてエゼキエルに示されたように、聖霊が注がれる時、私たちは、目の前の現実を超えて、神様の目から見た現実と、そのご計画を見る者となります。それはまず、私たちの一人一人が、主なくしては、霊的に枯れた骨のような者であるということであり、常に聖霊の満たしを必要としている存在であるということです。そしてそのような私たちであっても、主に立ち帰るなら聖霊の力を受けて生き返り、一人一人がキリストの体である教会にしっかりと結びつき、「非常に大きな集団」として神様が祝福して下さるということです。

 

今、私たちは、何を見て生きているでしょうか。現在、コロナ禍の中で、教会に多くの人々が集まれない状況が続いています。また、それ以前にこの日本ではクリスチャンの数が少なく、いまだに人口の1%の壁を破ることができない状況です。この水戸においても、約27万人の人が生活をしていると言われています。しかしその内のどれだけの人々がイエス様を知っているでしょうか。私は毎月、水戸市内の教会が集まる朝祷会に参加していますが、その中で、まずはこの27万人の1%、2,700人の人々に福音が伝えられるように祈りましょう、というお話があり、お祈りをしています。私たちもそのようにお祈りをしたいと思いますし、聖霊の力が注がれる時、私たちの一人一人は霊的な命を取り戻し、主が私たちの祈り求める以上のことをしてくださると信じています。神様が私たち一人一人に与えて下さる聖霊の力に期待して、日々を歩んでゆきましょう。