神の家族に招かれて

2022年1月16日 礼拝メッセージ全文

マルコによる福音書3章31節~35節

 

1.神の家族に招かれる恵み

マルコによる福音書を読んでいくと、イエス様がそこに登場する一人一人を招き、弟子としていかれた様子が分かります。私たちも、そのはるか先の時代に生きていますが、一人一人、イエス様によって招かれ、弟子とされて今ここで礼拝をささげています。私たちは「弟子」という言葉を聞くと、師匠と弟子との上下関係をまず思い浮かべると思います。確かにイエス様は、私たちの一人一人を弟子として下さいます。この「弟子」という言葉は、聖書原文のギリシャ語では「学ぶ者」という意味の言葉です。つまり、人は皆、イエス様を通して、神ご自身について学ぶことができるということを表しています。

しかし主と私たちの関係は、師匠と弟子、あるいは先生と生徒のような、この世の上下関係とは全く異なるものです。それはむしろ、家族としての関係です。イエス様を通して、私たちは神の家族として招かれています。特に今日の箇所を読みますと、イエス様が弟子たちをご自分の家族として受け入れておられた様子を見ることができます。この時、イエス様は、ガリラヤ湖の近くのカファルナウムというところにおられました。イエス様は、弟子とされた人々の家に泊まりながら宣教され、この時もどこかの家に泊まっておられたと思われます。イエス様がおられたその家の中で、「大勢の人が、イエスの周りに座っていた(32節)」とあります。それが実際どのような様子であったのか私たちには分かりませんが、イエス様がいつも人々と寝食を共にし、救いを求めてそばに来る者を一切拒まれなかったことを考えると、それは緊張感の漂う学習や修行の場ではなく、むしろリラックスした自由な交わりの場のようなものであったと想像できます。もっとも、あまりに多くの人々がやって来ていたので、人々は「食事をする暇すらなかった」と少し前の20節に書いてありますが。いずれにしても、イエス様は、自分のところに救いを求めてやって来たすべての人を、家族のように迎えて下さったということです。イエス様は、今を生きる私たちのことも、家族のように迎えて下さいます。そのことをどこまで実感しているだろうか、と思わされます。

 

2.イエス様の兄弟、姉妹、母とされる:①御言葉を通して主の御心を知る

ではイエス様が私たちをご自分の家族としておられるということは、具体的にはどのような意味においてでしょうか?

34節「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」

私たちは、イエス様を信じることを通して「神の子ども」とされるということは、頻繁に聞くし、比較的理解し易いかもしれません。しかし、イエス様は「あなたがたは、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われました。自分がイエス様の「兄弟、姉妹、また母」と呼ばれている、このことをどう受け止めたらよいでしょうか?

一つ目に、それは、誰でもイエス様を信じるなら、御言葉を通して神の御心を知る者となるということです。

イエス様が来られる以前、神の御言葉は、イスラエルの民の中の一部の限られた人々にだけ語られました。神様は、御言葉をモーセに律法として与え、預言者たちにも直接語られました。人々は、彼らの言葉を通して初めて、神の御言葉を聞き、神の御心を知ることができました。

しかしイエス様は、「神の言」として来られ、人々の間に住まわれました(ヨハネによる福音書1章)。それはつまり、誰でも、どんな人でも、イエス様を通して御言葉を聞き、神の御心を知ることができるようになったということです。一つの家庭で育った兄弟や姉妹は、父親の思いや価値観によって同じように影響を受けるものです。それと同じように、御言葉を通して父なる神の御心を示された私たちは、天の父の下で、イエス様と兄弟姉妹のような関係に置いていただいたということです。

イエス様のもとに集まった人々の多くは、学問もなく、身分も社会的地位も低いような人たちでした。そのような人々の一人一人に分かる仕方でイエス様は語られ、何が神様の喜ばれることであるかを教えられました。これは、現在でも同じです。私たちは聖書を通して、イエス様の語りかけを聞くことができます。そして、誰でも、どこにいても、神の御言葉を聞き、何が神様の御心であるのかを示されることができるのです。

ヨハネによる福音書8章31~32節「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」

全ての人は、イエス様を通して神の真理を知り、この真理は私たちを自由にするとイエス様は言われました。私たちは、自分を縛るあらゆるこの世の枠組みや価値観から自由にされ、ただ神の御心を求める者と変えられます。それはつまり、イエス様が父なる神様の御心をすべて知っておられるように、私たちも、イエス様の兄弟、姉妹、また母として、父なる神の御心を知る者となることができるということです。

 

3.イエス様の兄弟、姉妹、母とされる:②主の御心を行う者となる

このように、今日の箇所は、私たちがイエス様の御言葉を通して父なる神の御心を知り、イエス様の兄弟姉妹、母のような存在とされているという恵みを伝えています。さらに次のような二つ目の事実に私たちの目を開かせます。それは、イエス様が私たちに願っておられることは、兄弟姉妹、また母として、父の御心を実際に行う者となるということです。

家族となるということは、神様からの一方的な恵みであり招きです。私たちは誰も、自分の兄弟、姉妹、母を、自分の意思で選ぶことはできません。しかし、家族が本当の意味で家族となるためには、家族としての責任を果たすことが必要となります。それはたとえば、今日の箇所で、イエス様を連れ戻そうとしてやって来たイエス様の母と兄弟たちに見ることができます。彼らは、なぜイエス様を連れ戻そうとしたのでしょうか。直前の21節を読むと、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」とあります。イエス様の働きがあまりに素晴らしいので、あふれる程の群衆が集まるようになり、身内の人たちはイエス様のことを心配したのだと思います。

私たちも、もし自分の家族が危険な目にあっていると知ったら、何とかして連れ戻そうとするでしょう。その意味では、イエス様の母や兄弟たちの行為は、家族としては当然のことであったと言えます。家族になるということは、そのような責任を果たすということだからです。しかし、イエス様は、その家族の呼びかけには応えず、弟子たちのもとに留まりました。それは、自分の家族を軽んじていたからではなく、弟子たちのもとに留まることこそが、天の父の御心に従う責任を果たすことだと確信していたからです。

そして、自分の愛する母や兄弟たちではなく、むしろ、周りに座っていた人々を「兄弟、姉妹、また母」であると呼ばれました。これは、驚くべき恵みであると同時に、とてつもなく重い責任でもあります。大勢の群衆の只中からイエス様を連れ戻そうとした母や兄弟たち以上に、私たちはイエス様を家族として愛しているでしょうか?そのような愛は、私たちの内にも、弟子たちの内にもありませんでした。なぜなら、この時イエス様の家族とされたはずの弟子たちについて、イエス様が十字架にかかられる前、こう言われているからです。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった(マルコ14:50)」。もし私たちがその場にいたなら、どうだったでしょうか?

イエス様が「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われた時、イエス様は、私たちがそのように神の御心を行うことができない者であるということを知っておられました。それでもなお、イエス様はそのような弟子たちの一人一人を、また、私たちの一人一人を、家族として受け入れ、愛して下さっています。イエス様が来られたのは、神の御心を行うことができないすべての人の罪を十字架で贖うためであったからです。そのイエス様は、十字架で贖いを成し遂げられた後、三日目に復活され、弟子たちのもとに現れて下さいました。それは自分を見捨てた彼らを裁くためではなく、再び弟子として、ご自分の家族として招くためでした。

今日の箇所に出てくる、イエス様自身の家族である母マリアと兄弟たちはこの後どうなったでしょうか。イエス様は、決して彼らを見捨てた訳ではありませんでした。この時、彼らはイエス様を連れて帰ることはできませんでしたが、彼らはきっと、イエス様のために執り成し、何が主の御心であるのか、祈り求め続けていたと思います。そしてイエス様が十字架の死から復活され、聖霊が降ったペンテコステの日、使徒言行録は「イエスの母マリアとイエスの兄弟たち」が、泊まっていた家の「上の部屋」で、弟子たちと共に心を合わせて熱心に祈っていたと伝えています。彼らもまた、時が満ちた時に、主の恵みによって、本当の意味でイエス様の家族となることができたということです。

 

イエス様は私たちの一人一人を、今日もご自分の家族として招いて下さいます。それは私たちが御言葉を通して父なる神様の御心を示され、その御心を行って歩むことを願っておられるからです。私たちは、そのような素晴らしい恵みを受けていながらも、繰り返し罪を犯し、イエス様のもとから離れていってしまう者です。それでも主は、そのような私たちを繰り返し家族として、神の家へと招き続けて下さいます。今日の箇所で、弟子たちと共に過ごされた時間のように、同じ屋根の下で、いつまでも変わらない神の愛を注ぎ続けて下さいます。