ヨセフの信仰

マタイによる福音書1章18~25節 マリアは、ヨセフと婚約をしていましたが、聖霊によって身ごもるという事態が起こりました。すなわち、マリアに対して神の直接的な介入がなされたのです。このことは、ダビデ家の出であるヨセフにとって思いがけないことでした。彼は正しい人(義人であり「敬虔な人、信仰深い人」の意 ...

 歴史の中に見る神の救い

マタイによる福音書1章1~17節 ユダヤ人は、自分のルーツに強い関心を持っていて、自分たちの先祖が誰であり、どこから来たのかということを知ることによって、民族的アイデンティティを持つことができたのです。従って、ユダヤ人の先祖に対する意識は、他の国の人々と比較にならないほど強いと言わざるを得ません。確 ...

キリストの弟子となる 

マタイによる福音書28章16~20節 旧約・新約聖書に一貫していることは、神が私たちと共にいてくださるという神の約束の確かさです。神は、イスラエルをご自身の選びの民とし、その約束を歴史の中で具体的に果たし続けておられます。その約束の内容は、神ご自身が創造された私たち人間を愛し、決して見捨てず、いつも ...

新しい天地創造

イザヤ書65章17~25節 神は、常に新しい時代を造り出しています。人間は、継続することに目を留め、変化のない時こそ、安定であり平和な時代であると思いがちです。そう思うことによって新しい時代の夜明けを遅らせ、いつまでも暗闇の中で生活することになるのです。預言者イザヤは、神の創造物語を引き合いに出して ...

神は私たちの救い主 

イザヤ書63章7~19節 神に逆らい、背を向ける人たちであっても、神に造られた人であることに間違いありません。世界中の人々は、神の愛の対象者です。それは、子どもたちを与えられた両親が一人一人の子どもたちを同じ愛をもって養い育てることと同じです。世界のどの国の人も、私たち一人一人も神の愛の対象者であっ ...

苦しむ人に良い知らせを

イザヤ書61章1~11節 人は誰でも心に傷を持ち、痛みを抱えて生きています。「私は大丈夫です。」と意気込んでも、弱さを身に帯びている私たちは、途方に暮れる時があります。また、「自己」に支配されて自己中心的(聖書では「罪」と言う)に生きる時があります。そのような時から解放してくださるのがキリストの福音 ...

祈りの家としての教会

イザヤ書56章1~8節 預言者イザヤは、神に選ばれた人たちに対して公平と正義を守るように告げます。そうすれば救いが実現し、神の恵みの業が近いとイザヤは宣言します。私たちが公平と正義を得るにはどうしても安息日(教会にとっては「主の日」)を守る必要があります。キリスト者が主の日に神を礼拝することができる ...

悔い改める人を侮らない神

詩編51編1~21節 ダビデの軍隊は、周辺諸国との戦いで連勝に連勝を重ね、彼自身もどんなに難しい局面に当たっても、それを打ち破るほどの政治的手腕の持ち主でした。ダビデは、望むことすべてを成し遂げる権勢を持ったのです。そのような時に、サタンが忍び寄るのです。人間は、自分の力によって立ち得るという自信を ...

神は私たちの避けどころ 

詩編46編1~12節 様々な問題によって心がかき乱されるという経験は、誰にもあります。問題をはらんでいる私たちの日常生活の中にあって、神が行ってくれることを期待して待ち望むという信仰態度は、私たちの人生に欠いてはならないことです。「神は必ず私たちと共にいてくださる」という確信は、どんなことが起きても ...

神は全地に満ちる 

詩編8編1~10節 聖書は、果てしない宇宙を神の指の業として語ります。それゆえに「神は天地を創造された」という信仰を抱いた古代イスラエルの人たちは、何と感受性溢れた心の持ち主でしたでしょうか。星々が美しく輝く夜空を眺めることの少ない現代人は、「それは偶然の産物だ」と一言で片付けてしまいそうですが、し ...